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夜をほどく
第25章 私の名前を呼ぶ声

「紗江さん、お疲れさまです」
名前を呼ばれて、少しだけ胸が跳ねた。
振り向くと、異動してきたばかりの営業部の佐伯が立っていた。
「先日の提案、通ったみたいです。資料、ありがとうございました」
彼は年下らしい素直な笑顔を向けてくる。
けれど、その声はどこか、ぎこちなくて——
(違う)
同じ“紗江”なのに、彼が呼ぶそれは、どこか違う響きだった。
「よかったですね。お疲れさま」
静かに微笑んで、紗江は書類に目を戻した。
誰かに名前を呼ばれることが、こんなにも怖く、そして優しいと感じるのは初めてだった。
彼——光貴に抱かれた夜の余韻は、まだ皮膚の奥に残っていた。
そのくせ彼の不在は、空気のように日常に馴染んでしまっている。
もう、あの夜に戻ることはない。
わかっている。けれど、彼の声だけは、まだ耳の奥に残っていた。
「紗江、こっちを見ろ」
「黙れ。……でも、お前だけは、聞いてやる」
「好きだ、なんて言わせるな。……言いたくなるだろう」
全部、もう戻ってこない。
それでも、声だけが、今も背中を押す。
だから——
帰り道、携帯の連絡帳から「部長」の名前を消した。
思い出の断片に縋るためじゃなく、自分のために。
そして、久しぶりに自分の部屋の窓を開ける。
夜風が頬を撫でて、ふいに、涙が零れた。
だけど今のそれは、失う痛みではなく、
新しい朝を迎えるための、清めの涙だった。
「……さよなら」
小さく呟いた声は、風に溶けていった。
けれど、もうひとりきりじゃない。
千賀の気遣いも、佐伯の笑顔も、名前を呼ばれる温度も、ちゃんと感じられる。
私はまだ、壊れていない。
名前を呼ばれて、少しだけ胸が跳ねた。
振り向くと、異動してきたばかりの営業部の佐伯が立っていた。
「先日の提案、通ったみたいです。資料、ありがとうございました」
彼は年下らしい素直な笑顔を向けてくる。
けれど、その声はどこか、ぎこちなくて——
(違う)
同じ“紗江”なのに、彼が呼ぶそれは、どこか違う響きだった。
「よかったですね。お疲れさま」
静かに微笑んで、紗江は書類に目を戻した。
誰かに名前を呼ばれることが、こんなにも怖く、そして優しいと感じるのは初めてだった。
彼——光貴に抱かれた夜の余韻は、まだ皮膚の奥に残っていた。
そのくせ彼の不在は、空気のように日常に馴染んでしまっている。
もう、あの夜に戻ることはない。
わかっている。けれど、彼の声だけは、まだ耳の奥に残っていた。
「紗江、こっちを見ろ」
「黙れ。……でも、お前だけは、聞いてやる」
「好きだ、なんて言わせるな。……言いたくなるだろう」
全部、もう戻ってこない。
それでも、声だけが、今も背中を押す。
だから——
帰り道、携帯の連絡帳から「部長」の名前を消した。
思い出の断片に縋るためじゃなく、自分のために。
そして、久しぶりに自分の部屋の窓を開ける。
夜風が頬を撫でて、ふいに、涙が零れた。
だけど今のそれは、失う痛みではなく、
新しい朝を迎えるための、清めの涙だった。
「……さよなら」
小さく呟いた声は、風に溶けていった。
けれど、もうひとりきりじゃない。
千賀の気遣いも、佐伯の笑顔も、名前を呼ばれる温度も、ちゃんと感じられる。
私はまだ、壊れていない。

