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第26章 赦しの温度

静かな雨の音が、ガラスを伝って落ちていく。
窓の外では、春の終わりを告げるような雨が、街を静かに濡らしていた。

紗江は、久しぶりに鏡の前で髪を整えていた。
少し伸びた髪を撫でながら、自分の顔をまっすぐに見つめる。

「……もう、泣かない」

そう呟いた声は、どこか震えていたけれど、それでも凛としていた。
あの人と過ごした時間を、消そうとは思わない。
愛してしまった過去は、確かに苦しかったけれど——

それでも、紗江の中に刻まれたものは、消せない温度だった。

あの夜。
彼の指先が、肌の奥に触れてきたあの感触。
強引で、荒々しくて、それでいてどこか泣きたくなるような優しさを孕んだ声。
呼吸を重ね、名前を呼ばれ、愛されたという錯覚の中で確かに感じたもの。

それは、たとえ偽物でも、彼女にとっての真実だった。

「私は——私を、責めない」

目を閉じて、自分の胸に手を当てる。
心臓の鼓動は、あの夜のように速くはなかったけれど、確かに生きていた。

もう誰かに赦されなくてもいい。
彼に許されなくてもいい。

自分で、自分を抱きしめて、許してあげる。
愚かだった自分も、欲しかった気持ちも、全部。

リビングの片隅に置いてあった灰皿を、そっとしまう。
彼の吸っていたタバコの匂いが、まだ微かに残っていたけれど、それさえも今は懐かしい。

今夜は、眠れる気がした。
彼を思い出す夜が、ようやく終わる気がしていた。

赦しとは、終わりではなく、始まり。
そして、自分の名を自分で呼べるようになるまでの、静かな通過儀礼。

紗江は、小さく息を吐いた。

「……私の名前は、紗江」

誰の声でもなく、自分自身の声で。