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サイレントエモーショナルサマー
第30章 bacio
「下手くそ。上、向け」
顎紐が上手く締められずにもたもたしていると低い声が降ってくる。その声に従って顎をあげるように上を向くと浩志の手が伸びてくる。一瞬、首に触れた手にぴくりと身体が反応する。なんだ、これ。無性にドキドキする。
「…ど、ドラスタってあれだよね…ほら、武本警部補のシリーズで若い巡査が乗ってるやつ」
ヘルメットに隠れて私の表情は浩志には見えていないだろう。なんだか顔が熱い気がする。気恥ずかしさを誤魔化すように言うと、浩志は微かに笑って、そうだと言った。その若い巡査の名前は相沢だとも。
その相沢という若い巡査が出てくるシリーズの本を読んでいたのは去年の秋頃だった。あの頃はこんな日々が来るとは欠片も想像しなかったな。愛のないセックスを繰り返して、亡霊に囚われて、いつかひとりで死んでいくのだと思っていた。誰かと共に過ごす未来は愚か、明日より先のことを考えるのも億劫だった。
「お前、言ってたろ。相沢がずっとたったひとりの女を想うのは理解できないって。あの時、俺は…、」
俺は、なに?首を傾げても浩志は口を噤んで自分もヘルメットを被った。一応これも着ておけと渡されたパーカーを羽織ってからショルダーバックの肩ひもを調整。
スカートを辞めろと言われた時点で細身のパンツにゆったりめのシャツと足元はリレースローなかなりの軽装で来てみたのだが正解だった。私の準備が整ったのを見るとさっとバイクに跨って、顎で私にも早く乗れと促す。
作中で相沢は死別した恋人のことを想って、非番を利用し彼女と訪れた場所をバイクで回っていくシーンがあった。それが話の中の事件解決に絡んでいくのだが、行く先々で恋人との日々を思い返す相沢の心理があの頃の私には理解することが出来なかった。
「お前、もう一つ言ったんだ。俺がうっかり泣きかけたシーンに出てくる定食屋のとこ。ここって実際のお店かな、しらす丼食べたいって。がっくりきたわ。こいつ食い意地の方が先かって」
「もう一つの前に、さっきの続きは?」
「うるせえ。行くぞ。掴まっとけ」
エンジン音が響いて思わず浩志の腰に腕を回した。藤くんはちょっと細身だが、浩志は想像よりもずっとがっしりしている。風を切り裂いてスピードを上げていくバイク。浩志の体温が熱いのにぬるまっこい風が身体を撫でて薄らとその熱を冷ましていくような感じがする。