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その匂い買います
第1章 その匂い買います
 彼は真面目だと、会う人、会う人が、そう言う。酒も煙草もやらない、ギャンブルもやらない。借金もない。風俗にもいかない、勤務態度も真面目で、与えられた仕事はそつなくこなす。定時に上がり、そのまま、まっすぐに家に帰る。人付き合いは人並で、誘われたら無言でやって来る。聞き上手で、相槌を打つのもうまい。誰からも悪い噂や悪い評判も聞かない。昭和時代のドラマとかでよく見かけた、絵にかいたような典型的な真面目な会社員といった感じだ。尖ったところは一切なく、可もなく不可もなく、あまり面白味のない人間である。
今時、七三分けにした髪型の会社員など、皆無に等しい。紺色のスーツに薄い胸板、黒縁のメガネもどことなく、くたびれた色合いをしていた。
 同僚の向井が中塚に声をかける。
「中塚、飯を食いに行かないか? 俺が持ってやるからよ」
 中塚は一度足を止めて立ち止まり、そのまま左隣りにいる向井の方を向いた。
「申しわけない。今夜は先客がいるのだ。すまんな、向井」
「そうか、なら仕方ないな、それじゃあ月曜日」
 向井はそう言い残し、立ち止まっている中塚を残して、商業ビル群が立ち並ぶ薄暗い裏通りを、少し疲れ気味の足取りで大通りに向かい歩いて行く。中塚は無表情で向井が大通りに出るまで見つめている。通りを左に曲がったところで、向井の姿が消えたと同時に、中塚も反転をして歩き始める。
 今日は金曜日。仕事帰りの会社員の集団が、あちらこちら目に飛び込んでくる。中塚は、
「華の金曜日か」
 と、呟きながらそそくさと帰途についた。
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