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異聞 ヘンゼルとグレーテル
第5章 4
以前の自分なら迷わずその柔らかな肌を引き裂き、溢れる血潮を喉を鳴らして飲み干しただろう。
でも、今は食指が動かない。
グレーテルに対する想いを自覚した時、魔女は自分がグレーテルやハンスだけでなく、人間そのものを食べようと思えなくなっていることに気付いていた。それは魔女にとって死に直結する大問題。にも関わらず、魔女は大きな衝撃もなく自分の意識の変化を受け止めていた。

どうあがこうと、グレーテルに惹かれている自分を誤魔化す事は、出来ない……

伸ばされたグレーテルの腕の先、板に縛り付けた手首が赤くなっている事に気付き、魔女が紐を解く。特別キツく縛った訳ではなかったが、その事がかえってグレーテルが動く度に帯と肌とを擦り付ける事になり、手首を傷付けてしまっていた。
魔女はグレーテルの左手を手に取ると血の滲む傷痕をそっとなぞる様に口付ける。淡い光が細い手首を包み、赤みが少しづつ薄らいでいく。左手首の傷を治すと右の手首も同様に口付けて。魔女は綺麗になった手首を褥へ下ろし、グレーテルの身体を掛布で覆った。

命を奪う事に躊躇などないし、使えないモノは容赦なく切り棄てる。そうやって一人、生きてきた。命のあるなしに関わらず、何かを特別に思った事などない。その事に不満や疑問を抱いたりする事もなかった。
それが今は……グレーテルの笑顔を見たいと欲し、その兄にさえ醜くも嫉妬して、他愛ない言動に心を揺さぶられている。しかも、それを不快に思ってもいないのだから不思議なものだ。

汗の滲んだグレーテルの額をそっと拭い、魔女が金糸の様に柔らかな髪を歪な指で鋤いていく。小さな頭を撫でるゴツゴツとした手の動きは優しい。
胸の奥に宿る仄かな温もり。これからどんなに大切にしようとも、魔女の想いが報われる事は決してない。そうと分かっていても、初めて感じるその温もりが魔女には心地好かった。

このまま人間を食さずにいたら、そう遠くなく私の命は尽きるだろう。どうせ果てる命なら、グレーテルの手に掛かりたいものだ……

魔女は小さく息を吐いて、グレーテルの顔から窓へと視線を逸らした。孤独を見詰め続けて来た暗い瞳に青い空が写り込む。その手はグレーテルの頭を優しく包み、魔女はそこから動こうとしなかった。
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