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蘇州の夜啼鳥
第1章 ランタンの月
片岡は一瞬息を飲んだ。
…中国でビジネスを始めるようになって久しい。
無論、この国には日本や日本人を毛嫌いするある一定の層や人々がいることも熟知していた。
田舎の方では日本人だと分かると嫌悪感も露わに見つめられることも少なくはなかった。

…しかし、まだうら若く日本の大学に留学までした…しかも流暢な日本語を操る暁蕾が激しく日本を嫌っているのは些か不自然に思えたのだ。

「…そうか。それは残念だ」
さらりと両手を広げてみせる。
「では何で大嫌いな日本人相手に観光ガイドを?」
暁蕾は自虐めいた笑みをその形の良い唇に浮かべた。
「報酬がいいからです。
…それに日本人はたくさんお土産を買うから、土産物屋に連れていくとそれだけでマージンを貰えます。
売り上げが多ければプラスアルファの報酬が受け取れます。
生きていくためです。
軽蔑してもらっても構いません」
きっぱりと言い放った暁蕾に、片岡は上機嫌で笑った。
「ちっとも。俺は合理的なリアリストが好きだ。
君は実に立派だよ。気に入った」
そう言ってコーチの財布から札束を取り出し、無造作にテーブルの上に置いた。
「ガイドの報酬二十万だ。よろしく頼むよ」
暁蕾は慌てた。
「ちょっ…普通は前金だけで、残りは最終日です」
片岡は肩を竦めて見せた。
「ちまちましたことは嫌いなんだ」
形の良い三日月眉を歪めながら、意地の悪そうな微笑みで暁蕾は尋ねた。
「…もし私が報酬だけ受け取ってトンズラしたら?」
片岡は頬杖をついて、暁蕾を覗き込んだ。
「橋の上で煙草を吹かしていただけの観光客に喧しく注意する子が、そんな卑怯なことはしないさ」
驚いたように見張られた瞳は黒々と濡れたように輝いていた。
薔薇色の頬、すんなりとした形の良い鼻筋、珊瑚色の唇…。
…近くで見ると、本当に澄佳によく似ている…。
胸の片隅が、少し切なく疼くくらいに…。

「近いです」
暁蕾がぞんざいに片岡を押しやった。

片岡は弾けるように笑いながら立ち上がった。

「…契約成立だ。早速仕事を頼みたい」

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