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夜明けまでのセレナーデ
第6章 Le Fantôme de l'Opéra
…リュクサンブール公園から吹く風は、今朝も爽やかだ。
パリの五月は、暑くもなく寒くもなく一番良い気候なのだ。

瑞葉は漆喰の窓を押し開け、美しい緑の庭園に眼を遊ばせた。
深呼吸すると、薄荷の薫りの空気の中に仄かに薔薇の香気が感じられた。
…もう、薔薇の季節か…。

「瑞葉、おはよう」
速水がダイニングの扉を開き、瑞葉を背後から優しく抱きしめる。
そのまま覗き込むように、キスをする。
「おはよう、英介さん」
瑞葉は微笑みながらキスを返した。

「カフェ・オ・レにする?エスプレッソがいい?」
支度をしようとする瑞葉を優しく手で制し、
「いいよ。瑞葉は座っていて。
アンナに頼もう」

卓上の呼び鈴を鳴らす前に、若いメイドのアンナが膝を折りながら現れた。
縞のメイド服にエプロンが初々しい、まだ二十になったばかりのメイドだ。
「おはようございます。ムッシュー」
「おはよう、アンナ。
朝食をたのむ。
…瑞葉は?…だめだよ。飲み物だけじゃ。
ちゃんと食べなきゃ。
…アンナ、瑞葉の分もよろしくね」
速水の笑顔に、アンナは頰を染めて頷いた。
恥ずかしそうにダイニングを出て行くアンナを見遣りながら、瑞葉はそっと微笑む。
…アンナは英介さんが好きなんだな…。

瑞葉は目の前に座る恋人に視線を移す。

…髪をきちんと撫で付け、長身の身体に上質な濃紺のスーツを纏った速水は彫りの深い凛々しい容貌に加え、成熟した男性の威厳も兼ね備えるようになった。
講師をしているソルボンヌ大学でも、速水は女子学生たちからの人気が高いようだ。
フランス語は堪能、理知的であり何より優しく紳士である。
生来のフェミニストの心根も、彼女らに自然と伝わるのだろう。
それを指摘すると速水は瑞葉を抱きしめ、真顔で告げた。
「僕は瑞葉に愛されていたらそれでいい。
ほかのひとの愛はいらない」

…瑞葉は…?
と、少し不安そうに尋ねられ、瑞葉は静かに微笑んでキスを返す。
「…愛してるよ、英介さん」
速水はほっとしたように、無防備に笑った。

「どうしたの?瑞葉」
アンナが注いだカフェ・オ・レを飲みながら、怪訝そうな眼をする速水に、瑞葉は小さく首を振る。

「…ううん。なんでもない…」
開かれた窓から、パリの五月の風景に眼を遣る。
遠くでまだ若い雲雀が長閑に鳴いた。

…パリに来て、もう三年が過ぎたのだ…。



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