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鬼の哭く沼
第7章 花は綻ぶ
邪魔者を亡きものへ、と同時に、雨乞いの生贄でもあったのだろう。
蛟は恐れるべき妖であったが、一方で近隣村一帯の水神信仰の主でもあった。手元に置けぬ鬼子ならば、いっそ水を司る父親に贄として捧げてはどうか。誰かの提案に、村人たちが喜んで賛成したのは想像に難くない。
「八岐大蛇ノ血ヲ僅カニデモ引ク俺ガ、酒ニ飲マレテ命ヲ奪ワレルナド…出来過ギタ笑イ話ヨ」
くつくつとおかしそうに笑う須王に、当然香夜は笑う事など出来ずに眉を寄せる。
なんて…なんて、残酷な。
胸の奥がギシギシと音を立てて軋むような、重い怒りの感情。飢饉だ生贄だなどと言われても現代社会に生きてきた香夜にはぴんと来ない。が、その判断が間違って居る事だけは分かる。分かるが、当時はその行為を誤りだと声高に叫べなかったのだろう。いや、誤りだと気付いた者すらいたかどうか。環境や信仰、考え方が何もかも今とは違い過ぎる。誰もが、生きる為に必死だったのだ。
「それ、で…」
「ソノ、後ハ…アマリヨクハ覚エテイナイ」
とにかく、冷たかった。そして、苦しかった。
時期は春先、水は驚く程冷たく、重く、黒々として須王の身体を包んだ。粘度の高い生臭い水が鼻から口から入り込み、肺腑まで侵す感覚に喘いだ。縛られ自由にならない手足は水と同じ温度になり、薄れゆく意識の傍らに角のある蛇の姿を見た。
生まれて初めて目にする、実の父親の姿。
死ぬ直前、しかも贄の自分を喰う相手として会った父親に何の感慨も浮かばなかった。ただ、もう苦しいのは嫌だ、とだけ思った。苦しいのも、寂しいのももう充分。それらから解放されて終わるなら、それも良いと思ったのだ。思った、筈だった。
だが、それは一瞬。
自分を喰らおうと口を開けた蛟の鋭い毒牙と、温度の無い蛇特有の眼を目にしたその瞬間、「生きたい」という思いが込み上げた。
死にたくない。生きたい。何の為に、なんて分からなかった。生きていたいと思う理由なんてどこにも無かったのに。