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助教 沙霧
第16章 鏡の中の告発
 沙霧は、本棚に並ぶ一冊の和歌集を手に取った。
 在原業平の有名な一首が、今の沙霧の心に重く沈み込んでいく。

   月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
 ――月も春も、以前と同じではない。私という存在だけは、変わらずここにいるはずなのに。

 かつての沙霧は、この歌を「環境の変化と自己の不変」という文脈で解釈していた。だが今は違う。変わってしまったのは、世界ではなく、自分自身の内側なのだ。外見という「もとの身」は保たれたまま、その芯が誉という名の熱に溶かされ、全く別の、卑しい何かに作り替えられてしまった。

 沙霧は、誉から指定された「異物」――デスクの引き出しに眠っていた、真鍮製の古いペーパーナイフの柄の部分――を手に取り、それを鏡の前に置いた。
 明朝、これを受け入れることが、沙霧の「仮面の日常」を完成させるための、最後の一片となる。

 彼女は震える指でスマートフォンを操作した。

『……承知いたしました。明日の朝、私はそれを身に付けます。
 大学という聖なる場所で、貴方の支配を身に纏いながら、私は「助教 瀬川沙霧」を演じてみせます。それが、私の、主さまへの忠誠の誓い……
 私は、どこへ行こうとしているのか。どうなっていってしまうのか。もう自分ではわかりません』

 送信を終えると、沙霧はデスクに突っ伏した。

 明日の朝、鏡は再び彼女を告発するだろう。
 だが、その告発こそが、今の沙霧にとっての確かな『今』だった。たとえ先行きはわからなくとも。
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