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助教 沙霧
第19章 表の顔 裏の顔
 凍てつくような冬の朝、大学の正門を潜る瀬川沙霧の姿は、周囲の喧騒から隔絶された一幅の絵画のように凛としていた。短く切り揃えられた黒髪は、冷たい風に吹かれても乱れることなく、その意思の強そうな眉と、知性を湛えた大きな瞳を際立たせている。首元まで隙間なくボタンを留めたネイビーのコートに、折り目正しいウールのスラックス。彼女の歩調は一定で、一切の迷いを感じさせない。

 すれ違う学生たちは、自然と道を空け、羨望と畏怖の混じった視線を彼女の背中に投げかける。

「氷の才女」

 それが、この学び舎で沙霧に冠された異名だった。二十九歳にして助教の地位を得、若手古典和歌研究者の旗手として期待される瀬川沙霧。彼女が一度口を開けば、千年前の言の葉たちが鮮やかな色彩を帯びて蘇り、その鋭い分析は、ベテランの教授陣ですら襟を正させるほどだった。

 だが、その完璧な「仮面」の下で、沙霧の精神は、昨夜から続く甘美な毒に冒され続けていた。研究室のデスクに座り、分厚い書籍を開く彼女の指先は、時折、自らの項に吸い寄せられるように伸びる。短い髪の生え際、そこには誰の目にも映らない「見えない首輪」が嵌められている。脳裏には、あの赤い血の烙印を押した誓約書の鮮明な残像が焼き付いたまま離れない。

(私は、もう、戻れない……)

 沙霧は、墨の香りが漂う研究室の静寂の中で、深く息を吐いた。


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