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口琴
第17章 口琴
その日は、汗ばむほどの陽気だった。
カーラジオからは、大型連休の高速道路の渋滞情報が流れている。
ボンネットに、街路樹の新緑を映しながら、一台の車がゆっくりと住宅街の狭い路地を進んでいた。
車は、南仏風の一軒の家の前で止まる。
助手席のドアが開き、ヒールの低い黒のパンプスの女性が一人降り立った。
見頃を迎えたライラックの花が、そのたわわな紫色の穂を春の凱風に揺らし、芳しい香りを庭先から漂わせている。
女は目を閉じ、その懐かしい甘い香りをゆっくりと胸に吸い込むと、まるで精神統一でもするかのように、深く息を吐いた。
助手席の窓が、音をたてずに下げられる。
運転席から、付添人の曽我部と言う女性が、優しく声をかけた。
「それじゃ梨絵さん、終わったらメールして?迎えに来るから…。あんまり無理しないでね?」
「ええ。曽我部さん、いつもごめんね?じゃ、悪いけど、娘をお願いします」
ふんわりと緩めにまとめた髪が、風に乱れるのを手で押さえながら、梨絵は運転席の曽我部に頭を下げると、すぐに後部席に目をやる。
「蕾、大丈夫だから。ね?…じぁ、後でね?」
「ママ…」
後部席の少女は、瞳に多少の不安の色を滲ませていたが、それでも柔らかく頷くと、艶やかな紅い唇に笑みを浮かべ、母に小さく手を振った。