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潮騒
第8章 正一郎の過去 ー引潮ー
心の中でいくら他の女を想おうと、既成事実がなければ不義とは言わん…そのくらいのことは、菊乃にもわかる。でも、それでも心は納得できなかった。
唇を噛んで恨みがましく睨みつける菊乃に、正一郎が溜息をつく。

「…あのな、結婚する前の話や。二十六年生きてきて惚れた女の一人や二人おらん方がおかしいやろうが!?」

正一郎はうんざりした様子で吐き捨てた。
勿論菊乃だとて、その理屈は理解できる。
だが菊乃は、正一郎がトキエに向けた、

『一日たりとも忘れたことはない』

『惚れた女はお前だけ』

『嫁はしゃあなしで添うてるだけ』

という言葉のいちいちが気に入らなかった。
その言葉たちは、正一郎にとって、トキエが過去の女ではないことを物語る。

過去はどうでもいい。
今。
現在は妻が一番だと。
嘘でも言って欲しかった。

「……アイツが、幸せな結婚をしてたら…突き放せたんかな…せやけど、アイツの前で、今は嫁が居るからなんて、よう言わん…」

…苦しい言い訳にしか聞こえない。
それでも、話を聞いてやろうやないか。
そう、思った。
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