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潮騒
第8章 正一郎の過去 ー引潮ー
「トキエは…俺が出稼ぎから帰ってきて初めてえぇ仲になった女や…」

正一郎が、ぽつりぽつりと語り出す。

「普通に嫁に貰うつもりでおった。あいつの家は…親父が卒中で倒れてから結構な額の借金があった。それも俺が働いて返すつもりでおったんや。…あと、一年。一年あったら返す目途が立つくらいには、金も貯めた。俺が二十六になる頃、あいつは二十四…待たせとるのは解っとったけど、金のことはきちんとしてからにしたかった…」

正一郎は、言葉の合間にも深い溜息を吐く。
嫌味で偉そうないつもの正一郎の顔ではない。
菊乃は固唾を飲んで聞き入った。

「けどその頃、俺とタエの縁談が来た。…俺は、一遍断った。先を考えとる女が居る、ってな。…それがアカンかったんや。」

苦虫を噛み潰したような顔で、眉間に皺を寄せる。

「タエは…他に女が居るっちゅう理由で断られたのが気に食わんかったんやろうな。相手がトキエやってことまで調べて、家の借金に付け込んだ。」

狭い集落の中の話だ。家中のことから男女の仲まで、少し調べればすぐわかるだろう。

嫁いで来た時、正一郎とタエの因縁を耕太郎から聞かされた時は、正一郎は縁談に乗り気やなかったとだけ聞いたように思う。先を考えとる女が居ると正一郎が断ったのは事実なのだろう。しょうもない嘘はつかん男や。そこを菊乃に伝えなかったのは、耕太郎の気遣いか…
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