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喝采
第1章 ミサ曲ロ短調
開演五分前を知らせるベルが鳴った。
楽屋の壁に張り巡らされた鏡で服装の確認をする。うっかり蝶ネクタイを忘れて舞台に上がるようなことになったら大変だ。蝶ネクタイもオールバックに撫で付けた髪形も完璧。あとは精一杯歌うだけだ。
雫石はというと谷田部などいないかのように立ち上がり、右足を引きずりながら何も持たずに歩き出した。だが杖は壁際に立て掛けられたままだ。
「おーい。杖、忘れてるぜ」
「必要ない」
「大丈夫なのか?」
ステージまで途中、少しではあるが階段もある。だが谷田部の心配は、雫石の冷たい色の瞳に跳ね返された。
「僕に構うな」
――やれやれ。
谷田部は肩をすくめてため息をついた。今日も毛を逆立てた猫は、まったく懐く気配を見せない。
「ほらよ」
階段に差し掛かり、谷田部は手を差し出した。雫石は何も言わず、しかし何か言いたげに、谷田部の手を見つめている。どうしていいかわからない、そんな顔だった。
「転んで怪我でもしたらステージに立てなくなるからさ。ステージに穴は開けたくねえだろ?」
「……すまない」
いかにもプライドの高そうな雫石には、ただ「心配だから」と言っても、また跳ね返されるに違いない。そう考えた上で用意した断る隙のない言葉をかけると、ようやく雫石は谷田部の手をとった。重ねられた男性にしては華奢な手は、ハッとするほど冷たかった。もしかして緊張しているのだろうか。
ホールに鳴り響く拍手の中、最後に本番仕様の黒一色の服に身を包んだ斉賀が登場すると、やがて会場を期待に満ちた沈黙が支配する。
斉賀が腕を振り下ろすと、一瞬ののちにオーケストラと合唱から「キリエ」冒頭の、悲痛な祈りがほとばしった。
楽屋の壁に張り巡らされた鏡で服装の確認をする。うっかり蝶ネクタイを忘れて舞台に上がるようなことになったら大変だ。蝶ネクタイもオールバックに撫で付けた髪形も完璧。あとは精一杯歌うだけだ。
雫石はというと谷田部などいないかのように立ち上がり、右足を引きずりながら何も持たずに歩き出した。だが杖は壁際に立て掛けられたままだ。
「おーい。杖、忘れてるぜ」
「必要ない」
「大丈夫なのか?」
ステージまで途中、少しではあるが階段もある。だが谷田部の心配は、雫石の冷たい色の瞳に跳ね返された。
「僕に構うな」
――やれやれ。
谷田部は肩をすくめてため息をついた。今日も毛を逆立てた猫は、まったく懐く気配を見せない。
「ほらよ」
階段に差し掛かり、谷田部は手を差し出した。雫石は何も言わず、しかし何か言いたげに、谷田部の手を見つめている。どうしていいかわからない、そんな顔だった。
「転んで怪我でもしたらステージに立てなくなるからさ。ステージに穴は開けたくねえだろ?」
「……すまない」
いかにもプライドの高そうな雫石には、ただ「心配だから」と言っても、また跳ね返されるに違いない。そう考えた上で用意した断る隙のない言葉をかけると、ようやく雫石は谷田部の手をとった。重ねられた男性にしては華奢な手は、ハッとするほど冷たかった。もしかして緊張しているのだろうか。
ホールに鳴り響く拍手の中、最後に本番仕様の黒一色の服に身を包んだ斉賀が登場すると、やがて会場を期待に満ちた沈黙が支配する。
斉賀が腕を振り下ろすと、一瞬ののちにオーケストラと合唱から「キリエ」冒頭の、悲痛な祈りがほとばしった。