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喝采
第4章 ヨハネ受難曲
 「ヨハネ受難曲」本番。今日は受難節最後の金曜日、いわゆる「聖金曜日」だった。イエスはこの聖金曜日に十字架にかけられたとされている。

 今日も谷田部より早く楽屋入りしていた雫石は、すでに着替えを終えている。やはり谷田部に着替えを見られたくないのだろう。衣装はジャケットのインナーも含め全て地味な黒一色。演目が受難曲ということで黒一色があらかじめ斉賀から指定されていた。

「おはよう。相変わらず楽屋入りは早いんだな」

 挨拶は交わしたものの、無口な雫石が相手ではその後が続かず、気まずい沈黙が楽屋を支配する。

「……声を休めなくていいのか? エヴァンゲリストは出番が多い」
「大丈夫。優しいんだな」
「舞台を台無しにされたくないだけだ。本番まで黙っていてくれないか。集中したい」

 雫石はツンと横を向いてしまった。色白の顔にかすかに朱が差している。そしてよく見るとかなり睫毛が長い。雫石が目を閉じているのをいいことに谷田部が思う存分雫石を眺めていると、視線を感じたらしい雫石が目を開けた。

「……なんだ」
「いや、ずいぶんと睫毛が長いんだなって思ってさ」
「本番前に随分と余裕だな」
「そうか? まあ確かにあまり緊張はしないけど」
「うらやましいよ。僕は毎回震えが止まらない」

 雫石はぽつりと小さく呟いて自分の手に目を落とした。意外な気もしたが、やはりそうなのかという気もした。冷たくぶっきらぼうな態度の下、時折意外なほどの繊細さが垣間見える。振り払われるのも覚悟の上で谷田部は雫石の手を握った。冷たく、かすかに震える手。両手で包み込むと、やがて谷田部の熱が雫石の手に移った。雫石は谷田部を振り払わなかった。

「大丈夫。玲音が失敗するわけがない」
「……そうだといい。ありがとう。そろそろ時間だ」

 雫石は杖を置いたまま立ち上がった。谷田部が手を差し出すと素直に手をとった。手の震えは治まっていた。
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