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喝采
第8章 満ち足れる安らい、嬉しき魂の喜びよ
 雫石の指が軽やかに鍵盤を舞う。ごく普通のアップライトピアノから零れ落ちる音に、みな息を飲んだ。知らない曲だが、バッハのように谷田部には思えた。バッハは鍵盤楽器を得意としていたそうだが、バッハがモダンピアノを弾いたらこのような音になるのかもしれない。

 やがてピアノ伴奏に導かれ、雫石は流暢なドイツ語で歌い始めた。

 カウンターテノールとしての中性的で不思議な歌声が紡ぐのは、切なく悩ましげな受難曲とは異なる、甘やかで穏やかな旋律。受難曲を得意とする雫石がこんな柔らかな曲も歌えるのだとは知らなかった。谷田部の知らない雫石が、そこにいた。

 五分ほどで、たった五人の聴衆を前にした小さな演奏会は終わった。谷田部一家の拍手を受け、雫石は表情を変えることなく律儀に一礼する。

「綺麗な曲だな。バッハか?」
「そうだ。カンタータ第百七十番『満ち足れる安らい、嬉しき魂の悦びよ』の最初のアリアだ。アルトソロのためのカンタータだから、拓人は聴いたことはないだろう」
「ない。それにしても、玲音。何だよあのピアノは」
「どこか間違えただろうか」

 首をかしげる雫石に、谷田部は苦笑して首を振った。もしかしてわかっていないのだろうか。

「違う。音が違いすぎる」

 斉賀の「ピアノとヴァイオリンはプロとしてもやっていけるレベル」という言葉の意味を、谷田部は思い知らされた。雫石のピアノは谷田部の知る誰の音とも異なっていた。

「本当に! 玲音くんって、歌も凄いけどピアノも凄いのね!」
「ありがとうございます」

 興奮した様子の谷田部の姉に雫石は礼を言った。素直な言葉と裏腹に、心に抱え込んでいるものがあると気づいたのは谷田部だけだったろう。

 谷田部は「玲音が疲れているから」と早々に家族を追い払った。二人きりになると雫石はソファーに深く沈み込んだ。
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