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喝采
第9章 血しおしたたる
 翌日谷田部が雫石の病室を訪れると、雫石はどこかへ電話をかけていた。電話が終わるのをしばし黙って待つ。

「すまない。斉賀さんへかけていた。マタイはアルトの代役をお願いしなくてはならないから」
「そうか。やっぱり間に合わないのか?」
「外出が許可されればステージに立つこと自体は可能だろう。だが、練習不足の状態で歌うことはできない」

 予定されている「マタイ受難曲」の公演まではあと二週間に迫り、退院は望めない。また、入院中に歌の練習などできるはずもなく、完璧主義者の雫石がステージで歌うことを自分自身で許容できるとは思えなかった。

「玲音、……ごめんな」
「突然何だ」
「俺の代わりにこんな目に遭わせて」

 雫石は突っ込んでくる車を前に谷田部を突き飛ばし、轢かれたのだ。言ってみれば谷田部の身代わりになったようなものだ。突然の出来事に雫石より咄嗟の判断が一瞬だけ遅れ、結局庇えなかったことを谷田部は猛烈に悔いた。激しい自責の念に駆られる谷田部とは裏腹に、ああ、と興味なさそうに返された。

「僕の体は今さら傷が増えたところで、どうということはない。でも拓人は違う。拓人が傷つくより、僕が傷ついた方がデメリットが少ない。だから気にするな」

「バッカヤロウ!」

 病室だということも忘れ、谷田部は大声を上げた。

「メリットとかそんな問題じゃねえ! 誰だって怪我をすれば痛いし、昔痛めた足だってあるだろう!」
「痛みも、思うように歩けないのも慣れている」
「……そうじゃねえよ!」

 谷田部は言いたいことがうまく伝わらないもどかしさに歯噛みした。

「わかっている。大丈夫。拓人が僕を守りたいと願ってくれたように、僕は拓人を守りたかった。だから僕は後悔はしていない」

 雫石はベッドに横になったまま、谷田部の手をトントンと軽く叩いた。

「玲音、ごめんな。本当にごめん……」

 溢れてくる涙をこらえようと、谷田部は懸命に歯を食い縛ったのだった。
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