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埋み火
第3章 跳ね火
 あのころ。

 博之が休職し、復帰した日の朝にも霧子は泣いた。


『よかった、あなたがまた会社に行けるようになって本当によかった』


 そのころまだ体の関係には進んでいなかったが、既婚であることを隠していたようなひどい男のために泣いてくれるのかと驚いた。

 他の男に盗られても文句が言えない立場だと諦めていたが、内心では「霧子は俺のことが好きだからどこへも行かない」という慢心があった。

 油断ではなく、そう思いたかったのもあった。

 だからずっと連絡を取らなくても別れ話にはならないと思っていたが、実際に奪われしかも相手が自分よりも年上の既婚者だと言われれば愕然とし、次には腹が立った。

 自分も人のことを言えた義理ではないが、そんな男に霧子が「可愛いから」というだけで手を出されるのは不愉快だ。

 戯れに手折るのではなく、きちんと幸せにしてやるのでなければ霧子に触れてほしくない。

 だが、自分と同じような立場のくせに博之よりも自由なその男がひどく羨ましくもあった。


(いいなぁ、土日にきりと泊まりでデートできるのか、そいつは)


 泊まったホテルなどを聞けば自分の小遣いでは連れていってやれないところばかりだ。

 無造作に一万円以上もする髪飾りを贈ろうなど考えられない。

 子供の養育費に圧迫されて小遣いなど雀の涙だから、霧子を東京に呼びつけてもポンと旅費を全額出してやることすらできていないのだ。

 なのにその課長とやらは霧子を連れ歩いて古都の街並みを楽しんだら夜景の見えるホテルでベッドインするなどという贅沢をしている。

 そもそも、京都などもうずっと行ってない。

 行くとしても家族旅行にしかならない。

 数年前に出張で名古屋に行ったが、国内出張はそれきりだ。

 そんなふうに霧子と東京以外の場所で待ち合わせをしてデートすることは今の博之には不可能だ。


(俺がこんなんだから、遊び上手な男とデートして楽しかっただろうな)


 帰りの電車を気にしながらのビール一杯が精いっぱいである自分に呆れてその男に乗り換えられていてもおかしくはないのだ。

 そう思うといっそう、電話の向こうで鼻をすする、自分のことが好きだというかわいそうな女のことが愛おしくなった。

 この、かわいそうで愛おしい女に何かしてやれることはないか、と博之は懸命に考えた。
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