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埋み火
第3章 跳ね火
 目の前の年下の同僚が言葉をつづけた。


「前の、前のプロジェクトかな。あのときは大変でしたよ」

「え?」

「澤さん、つぶれたから。あのときはねぇ」


 博之がうつで半月休職していたときのことを言っているのだ。

 ニヤニヤしてから立ち去る彼の背中を、「こいつも倒れて、動けなくなればいいのに」と内心で毒づきながら博之は見ていた。


 霧子との朝晩の電話は、博之にとっても体調をととのえてくれる薬のようなものだったと電話をしなくなってから気付いた。

「俺はエンジニアなんだからコスト計算が仕事じゃないはずなのに」と愚痴を言ってみたり、土日に読んだ本の話をしたり、霧子の京都での話を聞いて笑うことがどれだけ日常において大切だったか、身に沁みた。

 ふた月に一度、ホテルで抱くだけの女ではなかった。

 そして週末に近づいて疲れがたまってくると声の調子で霧子はすぐそれを察して「ソファでうたたねしないで、帰ったらちゃんとすぐ寝てよ」と言ってくる。

 そんな風にまじめに思いやってくれる女とつきあったことはなかった。



『月がきれいですね』



 自分はそんな美しい言葉をかけてもらう資格などないのはわかっている。

 だが、夜に空を見上げる楽しみは増えたかもしれない、と思えた。

 霧子のきれいな横顔やほどよい肉づきの白い体を思い出してどんどん気持ちが高まり、汐留のホテルで抱く妄想が再び膨れあがっていくのを博之は感じた。

 久しぶりに晩に自慰でもしなければ眠れないかもしれない。


(読んだあと、取っておかなくてもいい本がけっこう増えたな。中古屋に売れば少しは旅費に足せるか。あと……)
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