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忘れられし花
第3章 母の顔
「馨様。今宵お方様が本館を訪れることをお許しください。最後に一度だけでも、お方様に母上様と会わせてさしあげたく存じます」
それまで一言も発しなかった松永が畏まって頭を下げた。お方様は何も言わず、ただ俯いて松永の言葉を聞いていた。
「井上に伝えておく」
馨はそれ以上の言葉を持たなかった。名を持たぬ兄は、母をも知らなかった。松永が申し出なければ、永遠に母に会うことができなかっただろう。
兄の許を辞し離れを出ると、執事の井上が控えていた。
「どうして兄上の存在を隠していた」
馨は強い口調で井上を問い詰めた。
「当主様と正人様のご意向です。虚弱な体ゆえ、放っておけば勝手に死んでくれるかもしれない。だからわざわざ馨様に明かす必要はないと」
祖父や母はもちろん、父も兄の存在を知っていた。知らなかったのは馨だけだった。そして兄の死を願うあまりにも身勝手な言い分に、馨は激しい憤りを感じた。
「兄上は母上とお会いしたことがないというのは本当か」
「はい。奥様は妊娠、出産を大層嫌がっておいででした。出産した子供も一度もお抱きになっておりません」
片や母親にすら望まれずに生まれ、名前も与えられずひっそりと生きてきた兄。
片や鷹取家嫡男として両親に愛され、何不自由なく暮らしてきた馨。
同じ母の腹から生まれたはずなのに、こうも違うものなのか。
「今夜兄上が母上に会いに来られる。人を払っておけ」
「かしこまりました」
井上は慇懃に一礼した。
それまで一言も発しなかった松永が畏まって頭を下げた。お方様は何も言わず、ただ俯いて松永の言葉を聞いていた。
「井上に伝えておく」
馨はそれ以上の言葉を持たなかった。名を持たぬ兄は、母をも知らなかった。松永が申し出なければ、永遠に母に会うことができなかっただろう。
兄の許を辞し離れを出ると、執事の井上が控えていた。
「どうして兄上の存在を隠していた」
馨は強い口調で井上を問い詰めた。
「当主様と正人様のご意向です。虚弱な体ゆえ、放っておけば勝手に死んでくれるかもしれない。だからわざわざ馨様に明かす必要はないと」
祖父や母はもちろん、父も兄の存在を知っていた。知らなかったのは馨だけだった。そして兄の死を願うあまりにも身勝手な言い分に、馨は激しい憤りを感じた。
「兄上は母上とお会いしたことがないというのは本当か」
「はい。奥様は妊娠、出産を大層嫌がっておいででした。出産した子供も一度もお抱きになっておりません」
片や母親にすら望まれずに生まれ、名前も与えられずひっそりと生きてきた兄。
片や鷹取家嫡男として両親に愛され、何不自由なく暮らしてきた馨。
同じ母の腹から生まれたはずなのに、こうも違うものなのか。
「今夜兄上が母上に会いに来られる。人を払っておけ」
「かしこまりました」
井上は慇懃に一礼した。