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忘れられし花
第3章 母の顔
「こちらが母上です」

 お方様は柩をじっと見つめ、白魚のような指で柩の縁をいとおしげに何度もなぞった。そして柩からそっと指を離すと手を合わせてうつむいた。

 母親のために祈るその姿は静謐な美しさを湛え、まるでお方様の周囲だけ時が止まったかのようだった。

「馨様、ご配慮に感謝いたします。……松永、谷山。離れに戻ります」

 柩から少し離れた場所に控えていた馨は柩のすぐ傍まで歩いてくると、兄の手を取った。
 目が見えない兄は、どれだけ見つめていても母親の顔を見ることができない。けれど兄は決して母親の顔に触れようとはしなかった。

「兄上。どうぞ母上のお顔に触れてださい」
「私は望まれなかった子です。お顔に触れるなどできません」
「それでも兄上の実の母には違いありません。どうか一度だけでも……」

 お方様はしばらく躊躇う様子を見せていたが、やがてゆっくりと細く長い指を動かし、母親の顔を少しずつなぞって確かめていった。

「奥方様のお顔は、私と似ていらっしゃいますか?」

 お方様は母親の顔から静かに指を離すと、馨に尋ねた。

「はい。とてもよく似ておいでです」

 母親似と言われていた馨よりも、お方様は母親に似ていた。

「そうですか……」

 お方様は静かに微笑んだ。どこまでも淡く透き通った微笑みからは、意志の力で押し隠された深い悲しみが透けて見えた。

「奥方様には生涯お会いすることはないと思っておりました。私などのためにこのような時間を設けていただき、感謝の言葉もございません」
「『奥方様』ではなく『母上』です、兄上。どうか母上とお呼びください」
「そのような畏れおおいことなど許されるはずがありません。私は……」
「私が許します。鷹取家次期当主たる馨が許します」

 母を母とすら呼べないお方様が、馨は悲しかった。せめて一度だけでも母と呼ばせてあげたかった。

「母上、様……」

 消え入りそうに呟いたお方様はその場にくずおれた。気を失ったお方様を抱え、奏と松永は離れへと戻ったのだった。
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