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忘れられし花
第1章 序
 数日後、奏は意識を取り戻したお方様に奥部屋へ呼ばれた。奏が枕元に腰を下ろすと松永は座を外し、室内はお方様と奏の二人だけになった。

「……何故この屋敷に残ったのですか? 先日のようなことは、きっとまた起こるでしょう。毎回私が庇うことは、難しいかもしれません」

 まだ起き上がることができないお方様は、横になったままだった。熱で掠れた声が痛々しい。

「お方様はただの使用人でしかない僕のことを、身をもって庇ってくださいました。次は僕がお方様をお守りする番です」
「私を許してくださるのですか? 私はあなたに酷い事を言ったのに」

 当主に「賤しい者」と言ったことを指しているのだとすぐにわかった。

 奏が全然気にしていないと言うと、お方様はかすかに微笑んだ。雪を溶かす春の日差しのような、淡く儚げな微笑みだった。

「私はあなたの名前すら伺っておりませんでした」

 お方様は奏に向かって華奢な手を差し出した。

「谷山奏です」

 奏は恐る恐るお方様の手を握った。初めて触れたお方様の手は白く滑らかで、発熱のため非常に熱かった。奏が手を握るとお方様は奏の手をそっと握り返し、優しく微笑んだ。お方様の手はとても細かったけれど奏よりも大きく、大人の男性を感じさせるのものだった。

「谷山さん。私はこのような不具の身ゆえ、色々とご迷惑をお掛けするかと思いますが、よろしくお願いいたします」

 奏の手を離し体を起こそうとするお方様に、奏は慌てた。

「起きてはダメです。お方様に無理をさせたら松永さんに叱られます。僕はお方様の使用人なんですから、松永さんみたいに呼び捨ててください」
「あなたがそう望むのなら」
「望みます」

 奏が大真面目に答えると、お方様はくすりと笑った。

「……谷山」
「はい!」

 小さく呼ばれた名に、奏は勢いよく返事をした。

 こうして奏はお方様の傍近くに仕えることになったのだった。
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