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いつかの春に君と 〜 番外編 アンソロジー集〜
第2章 愛のバルカローレ
玄関の車寄せに立ち、八雲は瑠璃色の瞳で和葉を見下ろした。
「本当にお泊りにならないのですか?
瑞葉様はとてもがっかりされておいででした。
ここの料理人の腕はなかなかですよ。
晩餐は、信州のジビエを振る舞うと張り切っておりましたのに…」
八雲が和葉を引き止めたい訳ではない。
瑞葉の喜ぶ貌が見たいから引き止めるのだ。
「明日は早朝演習だ。今夜の内に寄宿舎に戻らなくてはならないからね」
そう答える和葉に、八雲はそれ以上は引き止めずに恭しくメルセデスの助手席のドアを開ける。
八雲の運転する車に乗るのは初めてだ。
久我山の屋敷では、執事の八雲が車を運転することはなかったからだ。
「ここは使用人が少ないから、八雲は忙しいだろう?」
料理人と掃除婦と庭師がいるとはいえ、彼らは通いだ。
使用人が居ない間は、全て八雲一人で切り盛りしなくてはならない。
滑らかにハンドルを切りながら答える。
「瑞葉様のお世話だけに集中できますので、少しも苦ではございません。幸い、こちらに来てから瑞葉様のご体調も良くほっとしております」
冷たいまでに完璧に整った横顔には、見て取れるほどの安堵の色が浮かんでいた。
和葉はふっと笑いを漏らす。
「八雲は相変わらずだな。君の頭の中には兄様のことしかないんだな。
…ほかの人間は、君にとってエキストラ以下の存在なんだろうね」
皮肉めいて言うと、八雲はやや温度の篭った眼差しで和葉を見遣った。
「…昔、よく和葉様にそう駄々をこねられました」
「僕は君の関心を引きたくて…色々と我儘を言ったな」
かつてのほろ苦い記憶を思い起こす…。
…「八雲、好きだよ。ねえ、お願い。僕を見て。兄様じゃなくて僕を見て」
何度も縋り付いては、冷たく拒まれた。
「申し訳ありませんが、私は和葉様には何の感情も抱いてはおりません。
正直なところ、瑞葉様以外の人間に何の関心も持てないのです」
…それは、嫌われるより傷つく言葉だった。
無関心は憎悪より、人を傷つけ打ちのめす。
完膚なきまでに拒絶された和葉は、そののち男女見境なく恋の火遊びを繰り返した。
その場面を目撃しても八雲は何の感情も表さなかった。
…嫌悪すらも…。
こうして和葉の初恋は、苦い後味を残して儚く散っていったのだ。
「本当にお泊りにならないのですか?
瑞葉様はとてもがっかりされておいででした。
ここの料理人の腕はなかなかですよ。
晩餐は、信州のジビエを振る舞うと張り切っておりましたのに…」
八雲が和葉を引き止めたい訳ではない。
瑞葉の喜ぶ貌が見たいから引き止めるのだ。
「明日は早朝演習だ。今夜の内に寄宿舎に戻らなくてはならないからね」
そう答える和葉に、八雲はそれ以上は引き止めずに恭しくメルセデスの助手席のドアを開ける。
八雲の運転する車に乗るのは初めてだ。
久我山の屋敷では、執事の八雲が車を運転することはなかったからだ。
「ここは使用人が少ないから、八雲は忙しいだろう?」
料理人と掃除婦と庭師がいるとはいえ、彼らは通いだ。
使用人が居ない間は、全て八雲一人で切り盛りしなくてはならない。
滑らかにハンドルを切りながら答える。
「瑞葉様のお世話だけに集中できますので、少しも苦ではございません。幸い、こちらに来てから瑞葉様のご体調も良くほっとしております」
冷たいまでに完璧に整った横顔には、見て取れるほどの安堵の色が浮かんでいた。
和葉はふっと笑いを漏らす。
「八雲は相変わらずだな。君の頭の中には兄様のことしかないんだな。
…ほかの人間は、君にとってエキストラ以下の存在なんだろうね」
皮肉めいて言うと、八雲はやや温度の篭った眼差しで和葉を見遣った。
「…昔、よく和葉様にそう駄々をこねられました」
「僕は君の関心を引きたくて…色々と我儘を言ったな」
かつてのほろ苦い記憶を思い起こす…。
…「八雲、好きだよ。ねえ、お願い。僕を見て。兄様じゃなくて僕を見て」
何度も縋り付いては、冷たく拒まれた。
「申し訳ありませんが、私は和葉様には何の感情も抱いてはおりません。
正直なところ、瑞葉様以外の人間に何の関心も持てないのです」
…それは、嫌われるより傷つく言葉だった。
無関心は憎悪より、人を傷つけ打ちのめす。
完膚なきまでに拒絶された和葉は、そののち男女見境なく恋の火遊びを繰り返した。
その場面を目撃しても八雲は何の感情も表さなかった。
…嫌悪すらも…。
こうして和葉の初恋は、苦い後味を残して儚く散っていったのだ。