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いつかの春に君と 〜 番外編 アンソロジー集〜
第2章 愛のバルカローレ
「…あの頃は、君を憎んだよ。少しも僕を顧みてくれない君を…。兄様しか映さないその瑠璃色の綺麗な瞳に、ほんの少しでも、僕を映して欲しかったから…」

…でも…と、和葉は静かな口調で続ける。
「…君の気持ちが最近、少し分かってきたよ。
ひとは恋をすると、その人以外はどうでも良くなるってことをね…」

…伊織…。
その雄々しくもどこか寂し気で孤独な影を纏う青年…。
彼を思うだけで、胸が苦しくなり…身体の芯が熱くなる。
…こんな気持ちは初めてだ…。

不意に車が車道脇に停まった。
驚いて八雲を見ると、彼の美しい造形美を極めた長い指が、静かに和葉の白いうなじに触れた。
「…恋をされているのですね…」
「…え?」
しなやかな指先が、和葉のうなじをそっとなぞる。
「…あ…」
その美貌はひんやりと冷たいのに、指先は仄かに暖かい。
「…なかなか情熱的な恋人のようだ」
瑠璃色の瞳に薫り立つような、男の色香が滲むのを和葉は初めて見た。

伊織が付けた噛み跡だと気づき、和葉はその白くほっそりとした首すじを桜色に染め、慌てて隠した。
八雲の指先と和葉のそれが一瞬だけ触れ合い…すぐに離れた。

不意打ちのように高鳴る鼓動を鎮めようと貌を背ける。
「…和葉様…」
ゆっくりと八雲を振り返る。
…瑠璃色の…紺碧の海よりも深い美しい瞳…。
そうだ…。
僕は、八雲の瞳に魅せられて、海に憧れたんだっけ…。
その美しい原風景のような瞳が微笑む。
「…お幸せでいらっしゃるのですね?」
素直に頷く。
八雲の瞳が細められる。
「…良かった。信じてはいただけないかも知れませんが、私は貴方のお幸せをいつも祈っているのです」

…冷たい男の優しい言葉…。
初めてかけられた愛情にも似た言葉だった。
和葉は琥珀色の瞳を少しだけ潤ませて、笑った。
「うん。信じない」
…でも、ありがとう…。
そう呟いた和葉の唇が、男の端正な唇に静かに塞がれた。

…厳かな…あえかな慈愛がそっと贈られたような口づけを、和葉は穏やかに受け止めた。

ようやく初恋を終わらせることができた…。
懐かしくも切ない伽羅の香りの中、泣きたいような秘めやかな感傷を噛みしめる。

…心はもう、愛する恋人の許にあった。

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