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第10章 居待月(いまちづき)

東海林が笑いながら、言われた通りに元々暗かった部屋の明かりを全て落とす。

高い天井まである大きな硝子窓から月光が入るため、そこまで暗さは感じられなかった。

雅は一つ大きく息を吸い込むと、鍵盤にそのか細い指を置く。

最初の一音を聞いただけで、東海林は雅が何を弾いているか直ぐに分かった。

あまりにも有名過ぎる、この曲――ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十四番「月光」第一楽章。

先程の演奏とは正反対の、静かで慈愛に満ちた音。

右手の三連符と左手の重厚なオクターブが、幻想的でそして小船に揺られる様な不安定な美しさを醸し出す。

雲間から覗く月の頼りない光に照らされて、白い雅の頬が浮かび上がる。

閉じられた瞼から延びる長い睫毛が、一音一音の音の粒子を跳ね返している様に、輝いて見える。

東海林は壁にもたれ掛かり、目を閉じた。

(……あの時も月光に照らされて、貴女は輝いていた。自殺未遂を図り病院で目を醒ました貴女は、目を離した隙に屋上で独り、月光に晒され、佇んでいた――)

百合のように凛とした静謐な美しさから、大輪の薔薇の様な鮮やかで艶やかな美しさへと変わってしまった雅。

(貴女が、上手く生きていけるならば、貴女がどの様に変わろうといいのだ。ただ……前の自信の無さを隠した貴女の不器用な微笑みが、懐かしいだけだ――)

東海林はゆっくりと目を開ける。

その眼鏡の奥の切れ長の瞳に、テラスに続く大きな硝子窓越しに居待月と呼ばれる、満月から少し経った月が映り込んだ。

立って待ち続け、待ちくたびれて、座りこんで……それでもなお、待ち続けて見上げる――居待月。

「………………」

ふと、部屋の空気が動いた気がした。

「……部屋を出られた」

ぽつりと雅の呟く声。

(――――え?)

雅のほうを振り返るが、雅は目を閉じたままだ。

「……階段を降りて……鈴木に声を掛けて……」

くすり。

薄暗い部屋に、ピアノの調べと、唄う様な雅の声が静かに響く。

「……後、十歩……九、八、七、六、五、四、三、二……」

(――――いち)

東海林は心の中で、一緒にカウントしていた。

音もなく、分厚い遮音性の扉が開かれる。

「……雅……?」

月哉が廊下の光に照らされて、そこに立っていた。



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