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蘇州の夜啼鳥
第1章 ランタンの月
女はゆっくりと振り返った。
漆黒の絹糸のように美しい長い髪がさらりと、運河を渡る夕風に靡いた。
…瞬間にふわりと漂うのは、名も知らぬ中国の花の薫りのようだ。

「君、もしかして、ツアーガイド?」
女が細い首から掛けているネックストラップには、プラスチックのケースに入れられた名刺大のネームプレートのようなものが見えたのだ。
ちらりと盗み見たそれには…旅程管理資格取得者なるしかつめらしい文字が並んでいる。
どうやら個人で営業している現地ガイドのひとりらしい。

女は片岡に向き直った。
「…はい。そうです」
にこりともせずに答える。

向き合うと、女のこの国の高価な白磁のように白く滑らかな肌が顕著に目立つ。
瑞々しい唇といい艶やかな黒髪といい、片岡が思うよりかなり若い女なのかも知れない。

「君、いくつ?」
傍若無人に尋ねると、あからさまにむっとした貌をした。
「いきなり何ですか?失礼だわ」
…澄佳と似ているのは貌だけだな…。
片岡は可笑しくなった。

「俺は今日蘇州に着いたばかりなんだ。
一人で観光しようと思ったが、言葉が分からないからやっぱり無理だと思ってね。
現地ガイドを探していたんだ」
…嘘だ。
仕事柄、北京語はそこそこ理解できる。
一人で観光など訳はなかった。
…けれど…。

目の前の澄佳に生き写しの美貌の女は、警戒した眼差しのまま口を開いた。
「…本当ですか?」
「ああ。…見たところ、君は営業が下手そうだ。
今日も客にあぶれているんじゃないか?」
美しい貌が見る見る内に怒りの色を帯びた。
「失礼だわ!貴方!」
片岡は笑った。
「人は真実を突かれるとあからさまに怒る。
…君は大層美人だが、愛想のかけらもない。
おべんちゃらのひとつも言えなきゃガイドは務まらないよ」
「余計なお世話だわ!」
図星なのか、女は地団駄を踏むような動作をした。
…まるで子どもだ。
片岡はくすくす笑いだした。
憤然と背を向け立ち去ろうとした女の背中に投げかける。

「一週間二十万の契約でどうだ?
日本円でキャッシュで払う。
悪くない条件だろう?」
女の脚が止まった。
「…哀れな日本人の中年男がこの街で迷子になってスリに遭ってもいいのか?
君のせいで…」

女は振り返り、無言のまま悔しげな眼差しで睨んだ。

「決まりだな。
俺は片岡直人だ。よろしく。美姑娘」
片岡は朗らかに笑った。



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