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鬼の花嫁
第1章 プロローグ
「……お話は、それだけでしょうか」
李蘭は小さく言葉を残すと、ゆっくりと立ち上がった。
父が慌てて引き止めるように李蘭、ともう一度名を呼んだが、その声には振り返らなかった。失望したのだ。もう話す必要も、ここにいる意味も失ってしまった。
自分に置かれた立場くらい分かっているつもりだ。我儘が許されるだなんて、甘い考えはしていない。けれど、実の娘を贄に差し出すほど、父が冷酷な人間だとも思えない。確かに、姉妹に較べたら厳しく躾けられてきたが、そこに血の繋がりも絆もあるのだ。そう信じて、李蘭は今までどんなに苦しいことにも一つ返事で頷き従ってきた。従順に尽くしてきたのだから、引き留めて貰えると信じていた。
しかし、彼がそれから李蘭の名を呼ぶことは無かった。静かに部屋から退出した李蘭を引き留めることもせず、それどころか、障子から薄らと浮かび上がる父の顔には安堵の表情さえ伺えた。
その緩んだ顔の忌々しさよ。
これは、裏切られたことに対する怒りでもありながら、憎しみでもある。
腹の底から湧き上がる抑えきれない衝動に、身体が震え上がった。
(私は、一体何を期待していたの……?)
暗く沈んだ澱が心の中に沈殿していくのを感じるのと同時に、目の前に広がる庭の景色に懐かしみさえ感じて、涙が勝手に溢れ落ちてしまう。
春になれば満開に咲き乱れる桜。何匹もの鯉が跳ねる大きな池。幼い頃に見つけた名も知らぬ青紫色の花。その花の蜜を求めて優雅に舞う蝶。そして、その美しい蝶を喰らう醜い蜘蛛。
自分は、そんな蜘蛛の目にも不憫に見えたのだろうか。蜘蛛は、まるで李蘭を慰めるようにその白い腕を這った。