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千一夜
第54章 第七夜 最終章 真空のゆらぎ
 寒さを凌ぐために両手でコートの襟を掴んだ。私は冬の京都を舐めていた。こんなことならマフラーを持ってくればよかった。後の祭りとはまさにこのときに使う言葉なのだろう。
 空を見上げると雲がいくつか重なり、太陽が地球に送る光の邪魔をしていた。もしかしたら雨が落ちてくるかもしれない。マフラーもなければ傘もない。風邪などひきたくないが、覚悟はしておいた方がいいだろう。
 私は一人で広隆寺の境内に入った。
 京都で最古の寺院。そう言えば、私は大昔に弥勒菩薩を見ている。高校日本史の教科書だっただろうか、それとも日本史の資料だっただろうか。私はそれをすっかり忘れていた。弥勒菩薩を忘れていたなんて、少なくとも副市長の香坂には言えない。これをネタにマウントを取る香坂の姿が目に浮かぶ。
 少し前、私は初めて咲子を強く叱った(小さな喧嘩は何度もあるが)。広隆寺の駐車場に止めた車の中で、私と咲子は大喧嘩をした。「一人で行く」という私に対して「自分も行く」と咲子が譲らなかったのだ。
 沢田絵里(江村都子)との仲を咲子に勘ぐられても一向に構わない。正直に言おう。私は江村都子が怖い。
 私は江村都子が作った箱庭のようなところに閉じ込められて、都子の思うように生かされているような気がするのだ。都子の機嫌がいいときは私は生かされる。だが、都子の機嫌を損なえば私が生かされる保証はない。そんなときに私の傍に咲子がいたらどうなるのか。咲子だけはどうしても守らなければならない。
 咲子は車の中で大泣きした。どんなに咲子に泣かれてもここで自分を曲げるわけにはいかない。車の中に咲子を残して、私と竹内は車から外に出た。そして私は竹内にこう頼んだ。
「竹内さん、私は必ず戻ってきます。私は市長です。市民を守る義務があります。すべての市民が笑顔で暮らせる安全で豊かな街にしなければなりません。だから私は街に戻らなければならないのです。でも、でも万が一私が戻らなかったら咲子を連れて街に帰ってください。咲子を守ってください。お願いします」
 私は竹内に頭を下げた。
 竹内が「承知いたしました」と言って運転席に戻った。
「お嬢様、ここで私と長谷川市長をお待ちしましょう。用を済まされたら市長は直ぐにお戻りになりますから、ここで市長をお待ちしましょう」 
 竹内は咲子にそう言った。
「……」
 咲子は黙っていた。
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