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雨夜の灯(あまよのあかり)ー再会から始まる恋
第3章 「名前を呼ばれた日」

夏の気配が、湿った風に混じっていた。
雨はようやく上がり、アスファルトの隙間に咲いた草花がわずかに揺れている。
そんな中、芦原澪はまた、黒いフードをかぶって歩いていた。
胸には、小さなリード。
中途半端な保護用ハーネスに括られた子犬が、短い足でとことこと澪の隣を歩いていた。
昨日の紙袋に入っていた赤い首輪はまだ使えない。けれど、毛布の温かさと、哺乳瓶の柔らかさは、子犬にとって大きな救いだった。
澪はその背中を見つめながら、ふと立ち止まった。
そこにいた。
三枝環。ベンチに座り、缶コーヒーを手にしていた。
いつものように風を纏ったような姿勢で、どこか所在なく空を見ていたが、澪に気づくとすぐに立ち上がった。
「……来てくれたんだ」
声が柔らかかった。
その響きに、澪の心が少しだけ軋んだ。
言葉は返さない。
けれど逃げもしない。子犬が小さく鳴くと、環はしゃがんで手を伸ばした。
「……この子、ちゃんと生きてる。すごい。あなたが、助けたんだね」
環の瞳は、まっすぐだった。
澪の目を見つめるその視線には、あの頃のような影はなかった。
「名前……つけた?」
澪は首を横に振った。
その動きすらぎこちなく、心のどこかを傷つけるような仕草だった。
「じゃあ……一緒に考えてもいい?」
答えられない。けれど、拒む力も湧いてこない。
ただ、そのときだった。
「ねえ――澪」
名前を呼ばれた。
誰かに、自分の名前を呼ばれるのは、何年ぶりだろう。
鼓膜が震えた。
それは、耳ではなく、胸の奥に届いた響きだった。
環が笑った。けれど、その笑顔はどこか不器用だった。
「本当は……あの頃、話してみたかったんだ。澪と」
嘘だ、と思った。けれど、どこかでそれを否定しきれない自分がいることにも、澪は気づいていた。
子犬が、くぅんと鳴いた。
澪の唇が、わずかに動いた。
聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
「……ゆき」
「え?」
環が顔を上げた。
澪は子犬の頭を、そっと撫でながら言った。
「この子の名前……“ゆき”って、呼ぶ」
それは、凍ったままの彼女の心に落ちた、小さな陽だまりのようだった。
雨はようやく上がり、アスファルトの隙間に咲いた草花がわずかに揺れている。
そんな中、芦原澪はまた、黒いフードをかぶって歩いていた。
胸には、小さなリード。
中途半端な保護用ハーネスに括られた子犬が、短い足でとことこと澪の隣を歩いていた。
昨日の紙袋に入っていた赤い首輪はまだ使えない。けれど、毛布の温かさと、哺乳瓶の柔らかさは、子犬にとって大きな救いだった。
澪はその背中を見つめながら、ふと立ち止まった。
そこにいた。
三枝環。ベンチに座り、缶コーヒーを手にしていた。
いつものように風を纏ったような姿勢で、どこか所在なく空を見ていたが、澪に気づくとすぐに立ち上がった。
「……来てくれたんだ」
声が柔らかかった。
その響きに、澪の心が少しだけ軋んだ。
言葉は返さない。
けれど逃げもしない。子犬が小さく鳴くと、環はしゃがんで手を伸ばした。
「……この子、ちゃんと生きてる。すごい。あなたが、助けたんだね」
環の瞳は、まっすぐだった。
澪の目を見つめるその視線には、あの頃のような影はなかった。
「名前……つけた?」
澪は首を横に振った。
その動きすらぎこちなく、心のどこかを傷つけるような仕草だった。
「じゃあ……一緒に考えてもいい?」
答えられない。けれど、拒む力も湧いてこない。
ただ、そのときだった。
「ねえ――澪」
名前を呼ばれた。
誰かに、自分の名前を呼ばれるのは、何年ぶりだろう。
鼓膜が震えた。
それは、耳ではなく、胸の奥に届いた響きだった。
環が笑った。けれど、その笑顔はどこか不器用だった。
「本当は……あの頃、話してみたかったんだ。澪と」
嘘だ、と思った。けれど、どこかでそれを否定しきれない自分がいることにも、澪は気づいていた。
子犬が、くぅんと鳴いた。
澪の唇が、わずかに動いた。
聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
「……ゆき」
「え?」
環が顔を上げた。
澪は子犬の頭を、そっと撫でながら言った。
「この子の名前……“ゆき”って、呼ぶ」
それは、凍ったままの彼女の心に落ちた、小さな陽だまりのようだった。

