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『春のにほひ』
第1章 沈丁花の咲く頃…
 3

「あ、そうだ、今夜おいでよ…」
「え?」
「この甘さは夜になるとね…
 もっと、むせるように匂い立つのよ」
 その千里さんの目が、湿り気を帯びたかのように濡れて見え…
 心が騒つき、揺らいでくる。

「こ、今夜……」
 僕は戸惑い気味に呟く…
 誘われる意味が分からない。

「うん、今夜…」
「…………」
 その囁きに…
 無意識に心が震え、息を飲む。

「今夜はさぁ、月が細いから…寂しいのよ……」
 すると千里さんは、西のまだ橙の低い空に浮かぶ、鋭く細い三日月を見つめながら、そう囁いてきた。

「え…つ、月が細いって……」
 言葉を飲み込む…

「あ、うふ、なんだかかぐや姫みたいな言葉を言っちゃったわねぇ、恥ずかしい…」
「ぁ…………」
 千里さんの凛とした美しさと対照的なその照れ笑いが、僕の心をギュッと掴んでくる。

「ほら、もうお酒飲めるんでしょう?」
「あ…」
 本当はもう少しなのだが、思わず頷いてしまう。

「要は、一人で寂しいから、お酒付き合いなさいってことよ…
 梅の花でも見ながらさぁ、この沈丁花の甘い匂いに酔いましょうってねぇ……」

 僕には、断る理由がなかった…
 いや、まるできつねにつままれたような、夢みたいな誘いであった。

「え、は、はい、な、何時に…」

「ううん、そうねぇ…」
 千里さんはそう呟きながら、低い三日月を見つめ…

「あの月が、あれぐらいの高さになってからかなぁ…」
 と、西の夜空の微妙な高さを指差しながら、まるで悪戯っ子みたいな笑みを浮かべて言ってきた。

「あ、あれぐらい?」
「うん、あれぐらいね…」
「は、はい…」

「待ってるからね…」

 その曖昧な笑みと、言葉に…
 なぜか…
 僕の知らない夜の匂いを感じた。




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