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『春のにほひ』
第1章 沈丁花の咲く頃…
 5

 上弦前の鋭い三日月が向かいの家の屋根を越えた時…
 僕は、千里さんの家へ…
『愛人さん』との噂の家へと向かった。

 角を曲がり、垣根が見えた瞬間…
 強い、蜜のような、そして、むせるような甘い香りが鼻腔を刺激してくる。

『沈丁花は夜になるとね…
 もっと、むせるように匂い立つのよ…』

 あ、これかぁ…
 この甘い香りが僕を誘ってくる。

「あら…」
 すると、垣根の中から千里さんの声が聞こえてきた。

「あ…」
「いらっしゃい」
 まだ二月の寒いこの夜に、千里さんは庭のベンチにグラスを片手に座っていた。

「そろそろかなぁって、待ってたのよ…」
 そして、西の夜空の斜め上に冷たく輝く、細く鋭い三日月を見上げながら、そう囁いてきた。

「さぁ、こっちにいらっしゃいな…」
 手招きしながら、隣を指差し…
「こんな夜だから…敢えて冷たいお酒をね…」
 カチャ…
 と、ロックグラスに氷の塊を入れ…
 七面鳥の絵柄のボトルからお酒を注ぐ。

 キン…
 氷の塊が、小さく鋭く鳴き…
 外気の冷たさにグラスの表面が露で白ける。
 
「さぁ、どうぞ」
 ロックグラスを手渡され…
「来てくれてありがとう…乾杯……」
 カチン…
 千里さんはそう囁き、グラスを合わせてきた。

「………」
 僕は、どう応え、どう返してよいのか全くわからず、千里さんの導きのままにグラスを合わせ、口に含む。

「う……」
 初めて口にしたバーボンウイスキーは…
 苦く、大人の味がした。

「ふ………かわいいのね…」



 
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